2007/05/19

カニング外交

 『カンニング外交』より:

 試験監督のバイトほど楽なアルバイトを僕は知らない。任された教室に入って、受験生に注意事項を口頭で説明して、試験問題と解答用紙を配布し、後は「解答はじめ」と「解答止めて下さい」と合図を送って、解答用紙を回収して本部に送るだけである。これが試験監督のほとんど全てだ。昼食は弁当付きで、日当約7000円。貧乏学生には夢のようなバイトである。欠点と言えば、試験中はヒマでしょうがないことだろうか。試験中なので受験生も僕の遊び相手になってくれそうにないし。試験監督と言えば、カンニングする受験生を摘発するのが主任務であるとお思いかもしれないがそうではない。というか、僕はバイト中いままでカンニングしている受験生にお目にかかったことがない。
 カンニングという言葉からは、僕はいつも世界史の教科書載っていた漢字で覆い尽くされた下着を思い出す。それは今で言うとシャツに当たる下着で、論語やら孟子や老子などの大著がビッシリと下着全体に細かい字で書かれたものである。この下着は中世中国のもので、科挙の対策として編み出されたものであるらしい。科挙では論語などの儒教の科目があって、論語などを全部暗記していないと合格できない。しかも試験場は個室になっていて、持ち物検査さえ通れば、後は何とでもなる。ところが、このカンニングシャツの持ち主はそういかなかったようだ。何故ならば、どっかの博物館に保存されているこのシャツには、襟に黒っぽい汚れがある。それは、その持ち主の首と胴が切り離された際に付いた血痕であるらしい。
 以前、ラジオライフに外科手術で内耳に受信機を埋め込み、発信器を手に埋め込む「究極のカンニング」が紹介されていた。そして、試験中にそれで外部ブレーンと通信する。例えば、司法試験で「民法は危険負担と過失責任の関係が問われている」と受験者からの通信が入ったら、近くで受信したチームは判例や教科書から的確な最善の解答を探す。そのチームには司法研修生や専門学校講師等司法試験を突破した強者が必要だろう。手術代も含め、莫大な金が必要である。何もここまですることはないとお思いかもしれないが、司法試験や東京大学入試などはこれぐらいしても合格したいひとがいるのもまた世の中であって……。
 このように有史以来の試験の歴史は、カンニングの歴史と言っても良い。僕だって中学生の時は机に書いたり、いろいろしたが、高校時代はもうしなくなくなった。それなりに勉強したら高校ではそれなりの点は取れたからである(数学以外)。それより他人に見られたのは閉口したけど。
 大学生になって何度か模試や英検の試験監督のバイトをするようになってはじめて分かったが、カンニングは簡単に発見できる。試験中受験生は殆ど同じ姿勢になる。その中でそれ以外の姿勢をしている人はどうしても目立つし、僕らはそれを注目してしまう。しかし、カンニングの摘発は試験監督の仕事ではない。試験監督はあくまで試験の進行が仕事であるし、マニュアルには「不正行為があったら本部に連絡」といった事項は一切無い。またある英検の試験施行の方に、カンニングがあった際どのように対処するか聞いた時、「絶対断定しては本部に連絡したりしないで下さい。クレームが来て対処に困ります。ただ、ずっと注意を払ってその人がカンニングを“できない”環境にしなさい」と言われた。
 ガンジーみたいな姿勢でどこぞの国に少しは見習って欲しいが、要するに、試験監督はカンニングを摘発するのではなく、カンニングを「させない」環境を作ることである。これは夜、引ったくりを防ぐ為に巡回している警官を増員した場合を想像していただきたい。確かに統計上、引ったくりは減る。が、問題もある。それはいずれ述べたいテーマだがそれはまた別の機会に書こう。
 ちなみに、当然入学試験等はこうはいきません。おそらく、即おぢさんたちがたくさんいるところに連れていかれるよ。あとはしらないっと。やはりカンニングはやめた方が良い。
 ある大学模試の浪人生クラスを担当した時である。前述の通り、試験監督は試験実施中は実にヒマで、しかも読書は禁止されているため、教室を見回しているか、真剣に試験を解く女の子のブラジャーのホックを外す様を想像するぐらいしかすることがない。その時は、ぼんやりと教室内を見回していると、右側一番後ろの席の女の子の様子がおかしいのに気づいた。キョロキョロ周囲に注意を払っている。これは怪しい。僕は女の子に注目し始めた。小柄で可愛らしい女の子であった。細めのオリーブ色のパンツに、BHPCのワンポイントのあるシャツを着ていた。しかし、可愛い娘だなあ。
 そのように注目していると、彼女がすっと机の中からB5のコピー用紙を出した。そこには重要単語、イディオムが書かれているのだと容易に想像できた。嗚呼おっちゃん見ちゃったよ。とっさに僕がわざとらしい咳払いをすると彼女は僕の方を向いた。僕と彼女の目線が合った。彼女の表情が強張った。彼女はすべてを悟っただろう。その後も不安な顔をして試験に身が入らない様子だ。もちろん、僕は証拠品を取り上げるような面倒な真似はしない。ただ、僕はこの善後策を考える為に、残りの試験時間を有益に使った。善後策とは、つまり悪魔的な下心と原子核のように小さな良心のジハードである。
 すべての試験が終わって、僕が解答用紙を本部に持っていく途中にカンニングした女の子に話しかけられた。はっきり言ってそのまま帰った方が正解である。僕の僅かな良心が逃げ道を用意おいたのに。彼女は正直者過ぎたようだ。正直者が馬鹿を見て悪人の餌食になるのも、世の中であるのが非常に残念である。
「……あのー、見ましたね?」
「英語の時間のカンペ? あれはバレバレやったで」
「……すいません、出来心で」
「出来心は無茶やで。だってそのカンペ、作るのに時間かかるやろ。刑事裁判ではそういうのを『計画的犯行』っていうんやで」
「……」
「まあ済んだことはしゃあない。心配せんでええ。僕は君に今後こんなことを本番の入試でつまらんカンニングして、人生を滅茶苦茶にして欲しくなかっただけや。本部に伝えるつもりなんか毛頭ない」
「ホントですか?」
「ああ、将来有望な女の子を陥れるなんか、僕のすることやない」
「……よかった。ありがとうございます」